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作家「中野洋一」

中野洋一


ペンネーム:中野洋一
ペンネームフリガナ:ナカノヨウイチ
プロフィール概略:エッセイスト。きっかけは、定年間近の社内リフレッシュ・セミナー。自立した人生の送るために筆をとり、出版。現在2冊目の製作にとりかかる。

エッセイ「中野洋一」

歌舞伎老母とフラメンコ娘

フラメンコダンサーで、最近歌舞伎ファンになった孫娘Kから送られたDVD歌舞伎を、帰省した僕は独居老人の母と二人で、三日三晩観賞しつづけた。
フラメンコ娘が日本の伝統芸能に熱中しはじめたのは、祖母の隔世遺伝か、アメリカ生活の反動作用だったのか。語り合える相手がいてこそ、歌舞伎の楽しみも倍加する。

漂流民と国家

五日間のサンクトペテルブルグへの旅から帰国後、芋づる式にロシア関連書物を読みはじめた。広大なシベリアを抱える国家と民衆

白夜のサンクトぺテルブルグ

午後七時に開演されたバレー「白鳥の湖」の舞台が跳ね、パレス劇場の外に出ると青空が広がっていた。腕時計を見ると午後九時半

古代への旅(十二)肥前吉野と万葉集

「壬申の乱」開戦前年の六七一年(天智十年、天武元年)、天武天皇(大海人皇子)は、天智天皇の病気平癒祈願と称して出家し、

古代への旅 (十一)水城(ミズキ)と山城(ヤマジロ)

博多湾に注ぐ御笠川に沿って筑紫平野を南下すると、左右両側から三郡山地と背振山地が迫り、太宰府の手前で平野部がもっとも狭

古代への旅(10)法隆寺の真実

日本が誇る世界遺産の木造建築法隆寺は、大宰府から移築された寺院だった。
日本書紀は、六七〇年(天智九年四月三〇日)に

古代への旅(九)白村江の戦い

中国に帰化した阿倍仲麻呂の検証を経たとされる史書『旧唐書』は極めて信頼性が高く、同書に『倭国伝』と『日本国伝』が併記さ

古代への旅(八)仏教伝来と九州年号

通説は、『日本書紀』(欽明紀)の記事「十月に百済聖明王、(使者名)を遣し、釈迦仏の金銅像一軆、経綸若干巻を献る」をもっ

薔薇の谷のブルガリア共和国

日本旅行作家協会中東欧グループ世話人の渡辺節子さん企画によるブルガリア大使公邸(元経団連会長石坂泰三氏旧邸)での昼食会

『奇跡のリンゴ』

農薬を散布しなければ、林檎の木は枯れる。この恐ろしい現実が林檎園農家の常識なのだそうだ。明治政府が東北地方で奨励した林

古代への旅(七)筑紫君磐井(チクシノキミイワイ)は反乱者か

前節までの検討により、五世紀の「倭の五王」や七世紀の「日出る処の天子」の治める倭国が阿蘇山のある九州に存在したことを否

古代への旅(六)日出ずる処の天子

『隋書』の「タイ国伝」は、「開皇二十年(六〇〇年、推古八年)、タイ王あり。姓は阿毎(アマ)、字は多利思北弧(タリシホコ

古代への旅(五)倭の五王

五世紀の南朝劉宋(四二〇-四七九)の史書『宋書』を書いた「梁」の沈約(シンヤク)は四四一年生まれ、五一三年没だから、宋

古代への旅(四)神武天皇は実在した

定説は神武天皇が架空の人物だとみなすが、果たしてそうなのか。
『古事記』の神武東行説話(神武紀)は、近畿に侵入しよう

古代への旅(三)国歌『君が代』の起源

北京オリンピックで「君が代」が九回流れ、華々しく大会は閉幕した。
『君が代は 千代に八千代に さざれ石の いわお(ほ

古代への旅(二)天孫降臨と国譲り

記紀神話の天孫降臨地について、古事記は「竺紫(チクシ)の日向の高千穂の久士布流多気(クシフルタケ)に天降りまさしめき」

古代への旅(一)邪馬台国論争

古代史探訪の旅をはじめたのは、ロンドン駐在時代だった。ストーン・サークルで太陽の方角を見定めて古代人の心を探ろうとした

負けるな小犬

筑波山へ向かう途中、時ならぬ渋滞で車が完全にストップした。前方で事故でも発生したのか、様子がわからない。対向車線は順調

中欧の国ハンガリー(マジャル国)その2

ハンガリーのクリスマスには、「冬おじさん」(テーラポー)と称す愉快な名前の人物が登場する。サンタクロース(聖ニクラス=

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